マイルールを考えるより先に考えることあるよね

まず、風邪をひいていたことを言わねばなるまい。そうでないと、自分がいかに不調か、それゆえに、いかに変な文章を綴る可能性があるか、それを察してもらわなければなるまい。
さて、マイルールの話をした。しかし、まだ考えてない。それは、形にしづらいから、だろうか。
自分の好きなモノを列挙して、そういう自分が好きです、的なものでも構わない。確かに、それは自分を現すものになるだろう。
しかし、ここで誤算がある。自分の好きなものを把握していないのだ。
そういうと、ただのバカに見えるかもしれない。ほんのちょっとは自覚もしている。だが、それが自分を現す記号として、バカのレッテルを貼るわけにはいかない。
何が自分を左右してきたのか、譲れないものはなにか。そういったことを考えるのが本来の、マイルールの決め方であろう。それに気付かないのは実際問題、自分のことについて考えるのが難しいからではないだろうか。

自分、といった場合に、不可分なものとして感情がついてくる、とたいていの人が認識しているのではないか。しかし、感情は、それまでに積み上げてきた、経験の集積ともいえる。それは、魂レベルで考えた場合に、実現したい目標を達成するまでに経験するであろう感情をある程度予想がつくことになる。
つまり、感情は経験に対して不可分なものである。
そうなると、経験したくない事柄と、経験したい事とに分かれることになる。
経験したいことは、ある程度予測のつくものである。予想できるから、好感触をもって対応できる。必然的に、感情はポジティブになる。
経験したくないことは、未知である。感情が予測できないことに必要以上にマイナスのウエートをおいていることになる。

ここで、発想を変える。

どのような経験でも、ポジティブに考えることは可能である。それをしないのは、挑戦しないことを是としているから。挑戦とは何か。エネルギーを使うものである。心をフルに使わないと対処できないものであろう。つまり、心をフルに使えない、何かがある、ということになる。
確かに、心に余力はない。チャレンジするゆとりがない。
それを認めた場合に、何が最適かという問題があるわけで、世間は否応なしに変化していくものだから、それに対処していかねばならない。
変化に対しては、必ずアンテナを張らなくてはいけない。それは、どのような状態でも、である。心が疲弊し、感情がすりきれているであろう状態でも、必ず周りの状態は変化する。
変化は好転かもしれない。その時に、波に乗れるよう、準備がいる。準備とは、遊びのことだ。心のゆとりのこと。
どういう状況なら、自分は息苦しくないか、それくらいの余裕はもちたい。
つまり、マイルールとは、心に余裕をもてる、状況をつくることにほかならない。
だから、ルールとして堅苦しくするのではないということ。
ここまで考察したのだから、マイルールをゆるく考えていこうかな。