今の日本社会を肯定しているか。

システムを疑うって大事だと思う。まあ、個人的にだけど。

不条理なことでも、働くために受け入れるべきか、という点があるのだけど。 その点は書いてあったけど、想像しちゃうから、しんどくなってしまうという。

「フリーライド」しているのはどちらか

blog.tinect.jp

こういう記事を読んだ。

人口に対する、気質の配分は精査してないから変化しているのかは分からないけど、少なくとも、社会に必要とされている人間の気質の範囲は狭まっているのではないか、という記事。

まあ、社会の輪から外れた時に、病名が付く、というパターンは多いだろう。 企業が必要としている人間 < 社会を構成する人間、なので、企業は存続を目的とするなら有益な人間しか就社できないだろう。

就職していない、つまり利益を生まない人間というのはいるので、その維持にコストがかかる。

さて、社会は根源的に、持続可能性のあるシステムでなければならない、という命題があると思う。 さらに、セーフティーネットがある社会が望ましい、とも思う。 というのも、見返りというか、リスクのある仕事というのは存在するので、そのリスクを請け負う見返りで、仕事が出来なくなった場合を想定するのは普通のことだとおもう。

企業が置かれている社会は、そういったシステムを内包していないと安心できない。 システムの維持にはコストがかかる。そのコストのうち金額面は、就職者か、企業が払っているだろう。 しかし、お金だけがコストではない。誰かが、その維持にボランティアしなければならない。 その、時間と労力を払っているのは誰だろうか。

仕事だけに専念している、いわゆる高給取りは、弱者を支えるシステムによって生み出される治安などのインフラにフリーライドしていないだろうか。

「ヤクの毛を刈る」問題が問題を生む、を解決する

yak shaving、って言葉。覚えづらいし使いづらい。慣用句ってそういう傾向あるよね。

simplearchitect.hatenablog.com

(もう、今書いているこのブログ自体が入れ子状態だけど、そのうち解決するだろうとの認識。)

詳しくは、貼り付けたリンクを読めば良いけど、「ゴールに対して、認識、処理すべき作業が多すぎる」という問題が発生すること、あるよねという話。

その、問題まみれの状態を指して、yak shaving というのだけど、出典が分からないなー(出典を調べること自体がもうyak shavingだよね)。

この、第一歩をまともに進めることができない状態。そういう人がいるのは認識しているけど、なんて名前が付与されてるかは知らない。

ただ、GTD的に、処理を開始するってのも手法の一つだし、リンク先のように「書いた行動しかしない」とルール化してタスク処理をするのも一手。

ただ、自分の場合は、行動が切り替わったことを認知できない→地続きに行動がシフトするから、処理を挟む作業が成立しない、という特徴があるので、また別の処理のしかたを実行しないといけない。

読書、からの執筆衝動。続くかは不明

読んだ本は「知的トレーニングの技術」。

知性は技術であり、かつトレーニングをすることができるもの。 ライトな本じゃないけど、体系化していて、とても安心出来る。

さて、そこで問題が発生する。

自分は発達障害だ。

じゃあ、発達障害でも知的トレーニングができることを証明しないといけない。

それを、単純に連結させるとこうなる。

発達障害でもできる知的トレーニングの技術」ってテーマでブログを書くといいんじゃね?

安直だなーと思わないでもないけど、実際、需要は多少ある気がする。

まあ、発達障害でも出来るって点を売りにするなら、成功率でいえば安全側にデザインされているとは思う。

これを本当に執筆できるかは、不明。というか成功する道筋は見えない。

でも、執筆できるなら、知的トレーニングができる証明になるな、と地味に計算していたり。

本を読んでいるけど、まだ感想は書けない。

タイトルにPDCAが入るやつ、というとちょっと範囲が狭まるけど。 PDCAのサイクルを回すのは大事だと知りつつも、実際に回すのは苦手、というか、徹底できない。 回せばまわすほど、リターンが多くなるのを、やらないでいる理由はなんだろうか。 見える化をしていない、ということか。 どうやれば、PDCAを回せるか。それに必要な要素がそろっていないのでは? と仮説を立ててみる。 必要なのは、習慣と、感情的なリターン。やっても、反響がないのが困る、との認識。 動画作成を続けている、一番の理由が、コメントをもらえることにあるのではないか? とも言える。 そだねー、コメントは嬉しいね。あまり自覚はないけど。 感情、特に、嬉しさをコントロールしよう、というのが、続けるキーになる、と考えると、なるほど自分が何事も続かないのはそこにあるのか、と分かる。 感情がボトルネックになる、との認識をしただけでも、これは進歩ではなかろうか。

ブログを書くことに多少こだわる。多少。

多かれ少なかれ、文章は練らなくては書けないのだけど、ほとんど錬らないで書く、ということもできる。 それが価値があるかは分からないけど、見る人が見れば、何かを感じるかも。 という、中二が書きそうなことを書いてみて、落胆。

今回マッシュアップしたのは、ねこぼーろさんのオノマトペメガネと、バルーンさんの花瓶に触れた、です。 オノマトペメガネは、淡々とした曲で、それでいてオノマトペが効果的に入る、という感じで。 こたつに入っている猫を見ながら作曲したのかな? と想像します。勝手な想像です。 切ない雰囲気、琴線に触れてくる感じですね。

花瓶に触れたは、わちゃわちゃした入りからくるので、騒がしい。でも恋の歌かな? 大人の恋、秘密の恋。言ったら終わり、な感じ。 花瓶というと、ミステリーもので凶器として使われるのが思い浮かぶんだけど、まさか、ね。

この二つを混ぜて、何を目指したか。 オノマトペメガネの幻想的な雰囲気と、花瓶に触れたの生々しさ、それの融合を目指した感じです。 言ってみれば、ガラスの仮面紅天女にマジ惚れする紫の薔薇の人って感じ。

ブログ書くの忘れてた

ほんま、何がきっかけか忘れたけど、すっかり書くってことを忘れてた。 当然、書いてないんだから、ネタを集めるのも忘れている訳で。 空手形でブログを書こうとすると、まったく読者にとって興味のないことを書くわけだ。

唐突に、マッシュアップを貼り付けるのだけど、これ、誰がなんと言おうと、お気に入りだったりする。まあ、僕の感性はこの程度ということです。

言語化するっていうのはハードルが高いけどやってみるか?

セクト。これ、意味がよー分からん。重厚な音楽だから、不思議な空間を作っているんだよね。あの手の形は、バルカン星人の挨拶では? と思ったりしないでもない。 セクトの絵の迫力は、繊細かつ切ない感じなんだよね。これが現すのは、衰退とか破滅とかをイメージさせるね。つまりは創造だ。

一方、コウカツの方。甲高い笑い声から入るのは、意外。祈りのような感じがする。不吉な祈り。あくまで音だけのイメージね。歌詞はまったく考慮してない。どちらかというと、デジタルな祈り。

この二つを融合するとどうなるか。ひっそりとした空間に、ユーフォーが降りてきて、現地の人が祈りを捧げるようなイメージ。あくまでイメージ。未知との遭遇、ってほどではない。どちらかというと、戦闘機が墜落してきて、中からゴルゴ13が出てくる、くらいの感じ。

書いてて意味が分からない。イメージがあやふやだからこうなるのさ。と、開き直り。