コツコツとマイクラをする

掘る、というのはすごい労力が要る。 クァーリで掘ってるけど、メッチャデカイ範囲で掘っているから、岩盤まで時間がかかる。

掘った土はワープさせるか、自分がワープして運ぶか。 自動で処理をさせているけど、ワープさせるのに、ツールの通し番号を忘れて、自分で運んだ方が早くないか? みたいになって、運んでる。

それとは別に、地上絵もつくっている。 なんか、雪の需要が高く、雪を思いっきり貯める手段を作ってたり。 背景が白だから、雪だらけになると。 人物を抜き取るやり方を知らないから、そうなっている。

↑↑↑↑↑ といったことを、耳にたこができるくらい聞いた、みたいな。 そう、(今年に入って)大して作業は変わってないから、言うことは変わってないはず。

努力を設計するとは

努力とはなんですか? といった場合、たいていは継続することだったりする。 継続とは何だ? というと、習慣だったりする。 習慣を変えるのは、ほんの些細なことのようで、ストレスのかかるモノだ。 ストレスを許容できるなら、どんどん努力できるだろう。 他の人は努力しているよ? と言われても、ストレスのかかり方は、人それぞれだ。

そこで、ストレスがかからず許容できる変化をする、ということが、努力の設計ってことになる。 当然、データを取ること自体も、ストレスになる可能性がある。 現状、簡単ではないが、AIを使えば簡単になる可能性がある。

ぼくのかんがえたきょうの短文

そういえば、『思考できる』って状態は、実は贅沢なものではないか? という推論を立ててみたり。 つまり、日々の生活に追われていたら、あんまり深い思考はできない。また、学ぶ、というアプローチも出来にくくなる。 身体の調子が万全でないとき、とても考えていられる余裕はなかったので、そういう発想に至るのだけど。 もちろん、痛みに耐性のある人はその限りじゃないけど。

読み直さない、それは口調の黒歴史

自分のブログはたいてい読み直さない。それは、有益なことが書いてないってことよりも、自分の口調にウンザリしている、というパターンにはまっているときがそれ。 なんだか偉そうな口調でモノを申している姿がね、反面教師なのです。

それはそれとして、スクラップボックスにブログを書こうか、というアイデアがある。 ちなみに今使っているのは

https://scrapbox.io/pay-f-naruhodo/

よくわからないけど、多分ブログより便利そうだから使おうか、という感覚。 書くのは、それで十分事足りるのだけど、メール機能とかついてないから、やりとりしたい人は面倒くさいことしてね? という感じです。

雑記ブログの典型みたいな、雑記以外に書かれてない文章。

特に意図がないときのブログの書き方に悩んでしまうのだけど、ブログで書けることを、淡々と書くことが、自分らしいのでは? と思ってみたり。 暑い日には、暑いと文句をいい、また寒い日には、ボクのダジャレとどっちが寒いかな? と寒さ比べをしてみたり。 そんな、誰も聴いてないことを書く暇があるのなら、もっと有効なことを語って見やがれ、と思うのですが、なかなか実益のあることは思い浮かばないのです。 そんな、読書も途中でブログを書いているという自分なのですが、今日は新しい発見があったりなかったり。新しい発見自体はあったのですが、公表するほどでもないという。ニュートンが、「リンゴ落ちよったで」とブログに書いたのか問題は、どうも親類に「ニュートンはね、あの大発見をリンゴが落ちたことで発見したのよ」的なことを言いふらしたおしゃべりおばさんがいたらしい、という感じに理解しているのだけど、真相は藪の中と。 誰得な情報を追加することで、なんとも言えない空気を作り出すのがうまい、と自画自賛する自分ですが、それが褒め言葉になっているかどうかという審議が要ります。 こういう、どうでもいい情報でブログを埋めるのは、時には楽しく、時には面倒に感じるものですが、今日は面白いという風に振り幅が触れています。楽しいのならブログを書けばいいじゃない、的な話です。 今年も押し迫って、あと155日だったりするのですが、なんて中途半端な、とツッコムところかどうかを悩ませるのも楽しみの一つ。 こういうことを書くのはどういう心境かというと、昼間の熱が未だに溶けずに、脳が熱暴走している感じと言えば、分かるでしょうか。 こんな日は、ブログが進むなーでも進める意味が無いなーとか思ったり。もう少し、話を詰めると、ブログを書いているのに一向にタイトルになり得る、コアな話題が書かれていないぞ的な、もう少し書けば、何かひらめくかもしれないという安直な理由でブログをだらだらと書いていたりします。 書くのは自由だ。それを読む人のことを考えなければ。というわけで、ここでこの文章を読んでいる人、できれば石は投げずに地面においていただくのが賢明と思われます。私は非暴力主義です。 それにしても、ボクの書く文章は、だいぶ読みやすくなったなと今度は自己陶酔です。20代の頃の文章はそれはそれはひどかった。何しろ、書いている自分ですら、意図がまるで読めなかったから。なんか、たたんである紙になんか文章がかかれてあるな、とその紙を広げてみれば、中にも文章が書かれていて、それで一つの文章になっている、みたいな感じの、とにかくややこしいとしか表現しきれない、そんな文体だったので、現在のまだ人類に読める文章力に納めている、トリッキー過ぎない文章に、我ながらほっと一息ついていたりするのです。

フラットな視線、などは存在しない。

思考は、退化する可能性がある。 あー、あれね、今の時代的に、自分が成長できるってモデルを内在化してないとってやつか。

今日は読書をって思っていたけど、一生懸命ツイッターを読んでいた。

掃除をしよう! とはじめたのはデスクトップの掃除だからね、ほこりのひとつも拾わなかった。

試す、というトライはしているんだけど、ムダを知るターンだったりする。

普通は、そこで縁ができたりするものだけど、ネットサーフィンではえんはできがたい。

昼間より夜のほうがはかどる、と感じるのは、自分が夜型になっているからだろうけど。

運動しなきゃ、という定型文を放り込んでおく。

弱点の克服はあまり意味がない

ゲームではないのだから、成長限界ってのは誰にでもある。 精神論であるなら、救いがない。 コツを教えて、克服、というのも、なぜコツに気付かなかったか、といえば、苦手だから。 ワンコに、嗅覚を封印して視覚でものを判断させようっていっても、効率悪いですよね。 目だけを頼りにする麻薬捜査犬、っているわけないし。 鼻使えよって話。